僕がみてきた中東、ヨルダン。第1章

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僕がみてきた中東、ヨルダン。

鬼丸 武士

目次

一、青年海外協力隊 xx

二、ヨルダン到着 xx

三、マフラック xx

四、ヨルダン車椅子バスケチーム xx

五、シリア難民との出会い xx

六、就労支援プログラムへの挑戦 xx

七、最終報告会 xx

あとがき xx

僕がみてきた中東、ヨルダン。

「若いうちに一度くらい海外に出たほうがいい」

あの言葉をはじめて耳にしてから、ずいぶんと長い道のりだった。

「外から日本を見ると視野が広くなる」

今でも目を閉じれば思い出されるのは子供を諭すような、あるいは夢を語るような声。

「青年海外協力隊って知っていますか? これになると、自分の得意なことで海外で活躍できるんだよ」

僕はようやくこの地に辿り着いた。

ヨルダン・ハシミテ王国。

聖書にも記されるほど古い河によって育まれた、とても暑い砂漠の国だった。

一、青年海外協力隊

二〇一五年 六月三十日

朝とも夜とも判別のつかないぼんやりとした頭のまま、僕は機内の小さな窓から見える滑走路を眺めていた。

そこに広がっている一面の灰色は、出発前とそれほど変わっていない。長いフライトの果てに見える景色がこんな風であるのは、なんだかすごく不思議なことだった。

けれども時折聞こえる声の響きは明らかに日本とは異なっていて、眩暈がするようだ。期待感のようでもあるし、不安感のようでもある。やはり不思議な心地だった。

ため息を吐いて機内を見渡すと、いつの間にか満席に近かった機内からはほとんどの人が消えていて、片手で数えられるほどしか残っていない。

忙しなく機内の確認をしているキャビンアテンダントと目が合い、途端に居心地が悪くなる。どこか夢見心地だった頭もあっという間に冴えわたった。

僕は訳もなく慌てて立ち上がると、機内に持ち込んでいたオレンジ色のバックパックをひっつかんで、それこそ飛び降りるように飛行機の階段を駆け下りた。

ヨルダンの地を初めて踏んだ一歩目は、こんな風になんとも締まらないものだった。

ヨルダン王国の首都アンマンにあるクイーンアリア国際空港は、僕が中東という国に抱いていたイメージを一変させるほど、大きくて立派な空港だった。

日本からは十四時間以上もかかったけれど、パリやウィーン、ミラノまでならわずか四時間ほどで行けてしまうらしい。あらためてずいぶん遠いところまできたものだと実感させられる。

入国の手続きを済ませて手荷物受取所へと向かうと、近所の大型ディスカウントストアで購入した新品のキャリーバッグは、長時間のフライトでくたびれたのか、車輪が少し傾いた状態で返ってきた。

空港からはJICAの職員が案内してくれるという話を聞いていたが、腕時計を見てみれば、時刻はもう少しで昼の十二時になろうかというところ。約束の時間まではまだ一時間以上もある。

それならば、一足先に外の空気を吸ってみようと思い立った。

バックパックを背負いなおし、スーツケースを引っ張りながら、空港の出口へと向かう。すれ違う人や聞こえてくる言葉以外は日本とそんなに変わらないな、などと考えていた。

しかし、自動ドアが開いた瞬間に、そんなことは思い違いだと実感した。

まるでサウナの扉を開いたかのような熱波が僕を出迎えてくれたのだ。

乾燥しているのに、肌にまきついて染みこんでくるような重たい空気。

―ああ、僕は外国に着いたんだ。

日本では味わったことのない独特な熱感には、そう思わざるを得なかった。

晴れ晴れとした心地で空を見上げてみれば、空もまた雲一つない果てしない青が広がっている。空気の暑さも空の広さも何もかもが壮大で、思わず笑いだしてしまいそうだ。

これから二年間、青年海外協力隊として僕はこのヨルダンの地で暮らすのだ。そう思えば、この熱波や強烈な青空もなんだか愛おしく感じられる。

とはいえ、この炎天下で一時間も待っているわけにもいかず、僕はおとなしく空港待ち合わせ場所へと戻ることにした。

もう一度、腕時計を見てみると、ようやく十二時を過ぎたところだった。

日本はいま、十八時頃だろうか。半年前までの自分ならば、仕事が終わり帰路についている頃合いだ。その後はテレビを見ながら夕食をとるか、友人と飲み歩くか、どちらにしてもなんとなく予想の付く日々を過ごして、一年経っても二年経っても同じ毎日が続いていくものだと思っていたに違いない。

それが今では、こうして異国の地で気候の違いや空の色の違いに驚いて、一年どころか一時間後がどうなるかさえ想像もつかない。

「二年も現場から離れると、戻ってきてもついていけなくなる」

僕が青年海外協力隊に参加するために長年勤めていた仕事を休職するということを聞いた人の中には、そんな心配をしてくれる人もいた。

けれどもそんな不安は湧き出る期待感で容易に消えていた。

ここで見たことが僕の世界を広げてくれる。

先生の言葉は本当だったんだ。

僕が青年海外協力隊という言葉を初めて聞いたのは、中学校二年生の頃に通っていた塾の先生からだった。

その頃の僕は、言ってしまえば生意気な子供だった。

勉強はそれなりに得意で、塾でも勉強をしているから学校の授業なんて聞かなくてもわかる。

授業態度が悪くてもテストの点が取れるんだからそれで良い―などと考えていたのだ。

そのうえ、姉が二人いるので、いわゆる末っ子ならではの特性も身に着けていた。都合よく人の陰に隠れながら相手を観察し、目上の人に気に入ってもらう自分の要領の良さを、僕は幼心に理解していた。

つまりは反抗できる先生と従った方がいい先生を瞬時に判断してその通りに振舞っていたのである。

そんな風に非常に生意気な中学生だったが、一方ではとても純粋な面も持っていた。

気に入った先生、特に熱くて面白いと感じた先生の言うことには、とことん影響された。中学校の頃に通っていた塾の先生が、まさにその熱くて面白い先生だったのだ。

その学習塾は、個人経営の小さな塾だった。先生が一人で五教科すべてを教えていた。

先生手作りの数字のプリントをだれよりも早く解く達成感や、「ウメ、サクラ、エンドウ、ハス、ナズナ」と呪文のように繰り返し唱えて離弁花の種類を覚える理科の授業など、子供の競争心や遊び心を刺激するような先生の授業は自分にピタリとハマり、学力はめきめきと向上した。

けれども、僕にとってその先生と過ごす一番魅力的な瞬間は、授業中の雑談にあった。

たとえば社会科の授業中、日本の食料自給率の話になったときに先生が急に真剣な顔になったことをいまでも覚えている。

「僕らの食べ物のおよそ半分は外国の人たちが作ってくれている。みなさんはこの状況をどう思いますか?」

中学生の自分達にまっすぐと言葉をぶつけてくる先生だった。

またテストと関係ない話が始まった―そんな風に目をそらしている生徒もいたが、僕は先生の一挙手一投足まで食い入るように見つめていた。

あれほど濃密で純粋な時間は、たぶん僕の人生の後にも先にも二度とないだろう。

「若いうちに一度くらい海外に出たほうがいい。外から日本を見ると視野が広くなる」

先生は言った。

「青年海外協力隊って知ってますか。これになると、自分の得意なことで海外で活躍できるんだよ」

この言葉を耳にした瞬間、僕は青年海外協力隊になろうと思った。

海外で働くってかっこいい。知らない世界をこの目で見たい―芽生えたのはとても単純な想いだった。

いつかはなる。いつかはなろう。そんな想いを胸にしながら、僕は志望校だった高校に無事合格し、その後は医療系の大学を経て、理学療法士として大きな病院に就職した。

いつかは海外に出てやる。少年の心を胸に抱え込んだまま、けれども毎日に満ち足りていて結局は海外渡航経験ゼロという、なんだかちぐはぐな人生を送っていた。

その矛盾に気が付かないほど、理学療法士という仕事は魅力的だったのだ。

働き始めてからの一、二年は完全に没頭して働いていて常に仕事のことを考えていたように思う。そこにあったのは追われるような焦燥感ではなく、理学療法士として一人前になりたい一念によるものだ。

そうこうしているうちに、青年海外協力隊という言葉を初めて耳にしたときから、いつの間にか十年もの歳月が経っていた。

―あれ? いつ海外に行くんだっけ?

そんな疑問が生じたのは、職場に一人の作業療法士が復職したときのことだ。

その女性は青年海外協力隊としベトナムで働き、その任期を終えて職場に戻ってきたのだという。

「海外での仕事はどうでしたか?」

「めっちゃ楽しかったよー!」

僕が訪ねると彼女はまぶしいほどの笑顔で答えてくれた。

子どものようなその笑顔は中学二年生の頃の自分に重なり、僕の顔にもすぐに伝播した。

「自分もいつか行きたいんです!」

気が付けば、僕は心の底に根を張り続けていた想いを言葉に出していた。

「へー! じゃあ、鬼丸君も絶対行った方がいいよー! 人生変わるよ!」

こんな突然の告白を笑わずに聞いてくれて、彼女は優しく僕の背中を押してくれた。

仕事に戻ってからも、僕は自分の口にした言葉を何度も反すうしていた。

―自分もいつか行きたい。いま、世界に出よう。

それはもはや衝動としか言いようのないものだった。まだまだ一人前の理学療法士にはほど遠い自分だけれど、世界に出てみたいという子供のわがままみたいな気持ちは、もう止めることができなかった。

中学生の頃に抱いた夢を、大人になった自分が叶えてあげなければならない。

それからすぐに、僕は青年海外協力隊になるための準備を始めた。

やることは決まっていた。発展途上国で活躍する人材になるには、深い専門知識」よりも、どんな状況にも対応できる幅広い知識が大事だというのが僕の持論で、それを叶えるためには、小児から高齢者、救急から在宅まで幅広い環境で経験を積むことが必要だった。

僕は職場の上司と面談し、世界に挑戦するためにまだ経験していなかった小児のリハビリと在宅医療を学びたいと伝えた。

「おぉ、鬼丸君。僕はそういうの大好きだよ!」

職場の上司は僕の挑戦を面白がって、急な申し出にもかかわらず受け入れてくれた。

そうしてお世話になっていた病院から小児施設に移り一年、訪問看護ステーションに移り一年、という風に僕は職場を転々とした。

どこの職場でも、自分は新人ですというような働き方をしていた。部署が変わるたびに新人としての戦力にしかならない自分に「これでいいのか?」と葛藤する反面、好奇心が刺激される楽しい時間でもあった。

これに加えて、数年後に世界へ旅立つ日が来るのだというワクワクがモチベーションとなって、上司に告げてからの二年はあっという間に過ぎていった。

二〇一四年 四月

青年海外協力隊の募集が開始された。その頃は在宅医療の部署に所属していた自分は、かねてからの希望通り、いよいよ青年海外協力隊への応募を決めた。

六月の書類審査は無事に通り、残るのは七月に東京で行われる最終面接だけになった。

面接は人物面接と技能面接の二つ。

「志望動機を教えてください」

人物面接の場で聞かれた。

「働きだして頭だけ色々賢くなったけど、中学の頃外国を想像してワクワクする気持ちを失ってしまっている自分に気付いた」

一度口に出すと、溢れた気持ちはもはや止まらなかった。

「中学生の頃に夢だったことに向き合って、もう一度少年の心を取り戻したい」

素直に言ってしまって、すぐに「ああ、しまった!」と冷静になった。面接の場に来るまでは「貧しい国で困っている人の役に立ちたい」とか「自分の知識で助けられる人がいるなら助けたい」というような言葉を考えていたはずだったのだ。

けれども、面接官は僕のことを笑うでも叱るでもなく、子どもを見守るような顔で見つめていてくれた。 もしかすると、この時の僕は中学二年生に戻っていたのかもしれない。

その後の内容はあまりよく覚えていない。面接室を出たあとに廊下の椅子に腰かけて順番を待っていた次の受験者と目が合ったことだけが、なんとなく印象に残っていた。

待合室に戻ってスマホの電源を入れると、母親からメッセージが届いていた。

「お疲れ様。試験どうだった?」

待合室のソファに深く腰掛けながら、僕は脱力するように文字を打っていった。

「伝えたい想いは全部伝えたけん、あとは結果を待つばかり」

その言葉のとおり、僕の中の全部を出し切った気分だった。

そして八月に入り、いよいよ合格発表の日がやってきた。

当日の僕は朝から暇さえあればスマホを眺めていた。訪問リハビリを終えて患者さんの家を出るたびにスマホを取り出し、駐車場に車を停めるたびに合格発表のページが更新されないかと眺める。そして何度も、不安か安心かわからない溜息を吐いていた。

そんな調子で午前中の訪問指導が終わり、気もそぞろのまま車で職場へと戻る。到着するとすぐにまたスマホを取り出した。

青年海外協力隊のホームページを開くと、新着の中に合否発表という文字を見つけた。

ようやく読み込まれたページには、八桁の数字が無数に並んでいる。指先をスライドさせながら読み進め、慎重に自分の受験番号を探す。

「……あった!」

この喜びを誰かに伝えたくて、たまたま履歴の一番上に表示されていた母親に、短いメッセージを送った。

「合格したよ!」

「よかったね。おめでとう」

すぐに返事がきて、あらためて喜びが沸き上がった。

翌日、仕事から帰ると、アパートの郵便受けに見慣れない色の大きな封筒が届いていた。

「青年海外協力隊」という文字が目に入るなり、靴も脱がずに無造作に封を切った。

中に入っていたのは薄い冊子と一枚の赤い紙。

「派遣国ヨルダン、活動言語アラビア語」

赤い紙に書かれた見慣れぬふたつの言葉をみて、「あ!」と一瞬固まった。

応募の時に確認した派遣国リストのなかで、危険そうだから行きたくないと思っていた国の筆頭だったからだ。

だからヨルダンと書かれていたことに、どう対応していいのかがわからなかった。

呆然と玄関に突っ立ったまま、僕はポケットからスマホを取り出すと「ヨルダン」と文字を打ち込んで検索をかけた。

出てきたのは地図情報や遺跡の写真ばかりで、肝心の知りたい情報は何一つとして手に入らない。なんとなくそわそわした気分のまま一晩を過ごし、翌日に本屋へと走り、ヨルダンについて書かれた本を探した。

僕の抱いていた「なんとなく危険そう」というイメージは、ヨルダンについて調べるにつれて、次第に「なんとかなるだろう」と楽観的なものに変化していった。

夏から秋、冬へと季節が移ろうにつれて、戸惑いと不安はなくなっていた。

しかし、年が明けた一月のことだった。

仕事中、不意にテレビから「ヨルダン」という単語が響いてきて、僕は思わず画面を凝視した。

ヨルダンが取り上げられていたのは、テロに関するニュースであった。イスラム過激派によるヨルダン人パイロットの殺害事件は世界的なニュースとなり、日本国内でも大きく取り上げられた。

僕の不安は大きく膨れ上がり、派遣国を変えてもらえないものかと真剣に悩み始めた。

周囲からも思いとどまるように言われ、とうとう僕は青年海外協力隊の事務所に連絡をした。

応対してくれたのは中東を担当する職員だった。僕の悩みや不安を丁寧に聞いてくれて、彼は電話越しでこう言ってくれた。

「ひとまず派遣前の訓練を受けて、中東やヨルダンのことを知ってみてください。それでも行きたくないと感じるのであれば、辞退していただいてもかまいません」

僕はこの温かい言葉を受けて、自問自答を繰り返した。

「よく知らない国だけど危険そうだから行かないというのなら、僕はいったいどこの国なら行くというんだ?」

答えは見つからなかった。

悩んだ末に思い出したのは、先生の言葉だった。

「これからの若者は一度くらい海外に出たほうがいい。外から日本を見ると視野が広くなる」

その言葉を聞いて、自分は知らない世界を見ていたいと思ったはずなのだ。けれども今の自分は知らない世界に怯え、拒絶している。

「知らない世界を見るために行くんだろう? とことん飛び込んで、自分の目で確かめてみるべきじゃないか!」

僕は自分に言い聞かせてヨルダンに行くことを決意し、派遣前訓練を受けることにした。

二〇一五年 四月二十二日

僕は福島県の二本松駅にいた。

改札を抜けるとすぐに目に入ったのは「青年海外協力隊候補生のみなさん、ようこそ二本松へ!」と書かれた横断幕と、法被姿の住人達だ。

僕の他にも、周囲にはスーツ姿で大荷物を抱えている若者達がいる。一見すると就活生のようにも見えるかもしれないが、彼らも僕と同じように、青年海外協力隊として世界を経験しようとしている同胞だ。同じ風貌をした者同士、この土地の人じゃないことはお互いに分かり合っていた。

やがて「二本松青年海外協力隊訓練所行」と書かれたバスが到着した。あちらこちらに出来上がりつつあるグループがバスに吸い込まれていき、あっという間に満員になる。

隣席になった青年に「初めまして」と声をかけると、彼は目をきらきらと輝かせて挨拶を返してくれる。礼儀正しいのにどこか落ち着きのない様子は、まさに少年のようだ。

ほどなくして発信したバスは駅前のロータリーを飛び出し、街中を抜けて、気が付けば

山道を走っていた。その頃になると僕も隣の青年も緊張が抜けてきていて、少しだけ会話を交わす余裕も生まれていた。

僕らが他愛のない会話をしているうちに大型バスは坂道を登り、森の中を進んでいき、山奥にある訓練所の前に到着した。

青年海外協力隊の候補生は活動言語ごとに分けられた訓練所で、七十日間の派遣前訓練を受けることになっている。

メインとなるのは当然ながら語学の勉強だ。言葉が通じなければ海外をきちんと理解することはできないし、僕らの想いを伝えることもできない。その他にも文化や宗教だって大切だ。そうしなければ彼らを理解できない。

そしてなによりも大切なことは、僕らが派遣先に何を残せるかを学ぶことだ。そのために僕らは活動技法を学ぶ。

どうやって現地の人々の本音を聞くのか、どうやって現地の活動に溶け込んでいくのか。過去の隊員達が経験した失敗や成功の事例を参考にしながら学んでいく。現地の人に日本のやり方を押し付けて失敗したことや効率化を図りすぎて仕事の意味を伝えきれなかったこと、現地の人と一緒に歩むことで見つけたことなど、先人が積み重ねてきた教訓は、これから始まる二年間への想像をかきたててくれるものばかりだった。

二年間を単なる労働力として消費するのではなく、派遣先に何かを残して帰る―それこそが青年海外協力隊の役割だ。

訓練所の朝はラジオ体操とランニングから始まる。早朝訓練のあとは食堂で朝食を手早く済ませ、午前中から夕方までは語学グループごとに分かれて授業を受ける。

授業は言語の勉強と宗教や文化の講座が中心だ。授業が終われば夕食の時間となるのだが、わずか七十日間で外国語を習得するのは簡単なことではなく、ほとんどの訓練生が毎晩自習をしていた。

世界一難しいとも言われるアラビア語を取得しなければならない僕もまた、あらゆる時間を語学の勉強に費やした。

首から下げている名札にはいつも新しい単語帳をくっつけて、アラビア語と片時も離れなかったくらいだ。

訓練所の一週間で、日曜日だけは唯一の休日となる。けれども、山奥に建てられた訓練所において、日曜日の楽しみといえばコンビニで爆買いをすることくらいだった。

まさに山籠もりという言葉がふさわしいほど、外界と切り離された特殊な世界だった。

それでも訓練所の生活はとても楽しかった。個性豊かな青年海外協力隊の候補生たちとの共同生活は、僕に様々な刺激を与えてくれたのだ。

僕の所属する訓練所には医療従事者の他にも、学校教員や環境教員、カメラマンやエンジニア、野菜栽培や電気通信に詳しい人など、色々な分野の専門家が集っていた。

学生時代からリハビリを専門に扱っているような大学に通い、ずっと医療や福祉の世界で生きていた自分にとって、これだけ様々な分野の人々に触れるのは新鮮で仕方なかった。

訓練所で過ごすあらゆる時間が、ヨルダンで暮らす日々への期待を膨らませてくれた。それが僕の勉強意欲を大きく支えてくれたのは間違いのないことだ。

中東やヨルダンのこと、そして世界のこと。知らないことを知っていくことで、訓練所に来る前に抱えていた不安は少しずつ薄れていった。

そして七十日間の訓練所生活はあっという間に過ぎ去り、僕達はそれぞれの想いを胸に抱えながら、世界中に飛び立っていった。

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